- COLUMN
- 日々のこと
どちらも勇気のいること
誰でもどんな環境でも痛みや悩みの中で生きているという事実をいつでも心の側に置いておくのは難しいことなのだろうか。
今年に入ってからの度重なる
自死のニュースが深く響き
今もずどんとした塊が心にある。
書いたままずっと保存ボックスに入ったままだった。
今までの自分だったら
これはずっとそこに入ったままだと思う。
もしくは大切な友達や家族に少し話したかもしれない。
SNSの意味をこの数ヶ月考えていて。
私はインスタグラムは仕事を始めるまで3年ほどやめていた。
無くても支障がなかったから。
TwitterもFacebookもしたことがない。
でも、ブログやコラム、育児の四コマ漫画は読んでいて救われたことがたくさんあって。
負の側面ばかりが目立つけど、本来の意味(この辺り、個人差があると思う)を考えてみたときに少し書いてみようかなと思ったのでした。
どうしてこんなに心が重たいのだろう。
たくさんの人が口にしていた。
本当にたくさんの人が。
悲しみ、失ってから気がついた期待、
疑問、たぶんたくさんの感情が一度に押し寄せ心が囚われ疲れてしまったのかなと思う。
でも、よく目にした
あんなに恵まれた人が、という文字が私は全く心に入ってこなかった。
これ以上、何も欲しがらなくて良いんだよと
他人から言われたことがある。
いや今もあるし、その逆を言われることもあって。
家庭も子供も仕事も趣味も家も、とか。
でもそのバランスは当事者が決めることで
それが欠けているから
それを所有しているから幸せだろう、
反対に残念だな
という視点はとても「個人的」だなと思う。
恵まれているとか逆に蔑まれたりとか
そういう類のことは「その人」の基準で
それが多数ならば「世間的に」と言われるのだろうけれども
それを口に出すという行為は必要なんだろうか。
そういう時に、その人の優先順位や
たぶん、その人が欲しているのであろうことが透けて見えるような気がして後追い記事は伏せたまま。
過程、というものがどんなものにでも必ずあるはずで
どういう過程を経て今があるのか
事細かに知り得ることはできないし
今も辛いことがあるのかもしれないし、
その人にとってはまだまだ遠い先の目標に向かう過程で有るかもしれない。
想像力をそこに使いたいなと考える。
自分がどんな状況でも辛くてもそこにだけはしがみつきたい。
色々な想像ができる自分にいくつになってもいたいなぁと考えてじゃあどうしたら良いのかなぁとまた考える。
そうすると痛みや傷の数が無駄じゃないんだということに気がつく。
想像しすぎると、
悩んでる相手に何も声をかけられなくなることがあるけれど
それでもどんなに苦しい時でも自分が惨めに思える時でもそこだけにはしがみついていたら
長きに渡り人の心を蝕んでしまうような言葉や言動、追い詰めてしまう「何か」は減るのではないかと思っている。
そしてもしかけた言葉で傷つけてしまったら謝る、コミュニケーションを取ればいいと今は思う。
それでそっぽを向かれちゃったら仕方ないのかな、と。
生きることも死ぬこともとても勇気がいる。
赤の他人の私が
締めくくるような言葉は見つからないし、
締めくくることはできない。
でも、そうやって考え続けたいと思う。
そして大切な人とは「言葉」を交換し続ける勇気を持ち続ける関係でいたいと思う。
「察する」という
昔は人に求め、美学めいた気持ちで自分の中にあった心の動きが年を重ねるに連れて
対極にあるような「言葉にすること」の大切さの方に自分の意識が向いている。
晴れた夏の空と青々とした田んぼを見て
どちらの勇気も考えた2020夏でした。